2007/10/19 野いちごの生える場所

 札幌での楽しみの一つは、北大近くの名画座「蠍座」に通うことである。名画座とか名曲喫茶とか、其の手の私にとっての貴重な“人生の避難場所”は、東京でもめっきり少なくなっている(もはや絶滅危惧種か)。映画はもちろんだが、毎月発行されている小さなパンフレット「蠍座通信」を読むのも楽しみにしている。特に館主氏によるコラム「らいたあ独白」を。ネット上で膨大な情報が日々、垂れ流される時代(私のことだ!)、古風で、凛として、我が道を行くその表現スタイルに、密かに憧れている。
 その蠍座で、イングマール・ベルイマンの作品上映が行われている。年末まで続く大きな追悼特集だ。行くしかない。何とか時間をやりくりして。
 「あなたの生涯のベスト・ワンは?」などという質問には、出来れば答えたくないものだが、ある時期の私なら、ベルイマンの「野いちご」(1957年)をあげていたかもしれない。そのくらい、私にとっては大切な作品だ。この映画を、この時期に札幌で観ることになるとは夢にも思わなかったが。
 最新の「蠍座通信」では、「野いちご」について、「ベルイマンの作品系列の中でみると比較的『わかりやすい』ほうの部類にはいる映画であるかもしれない。しかしそれは、『野いちご』以降この名作を模倣する映画作品が多くあらわれ、観客がこの作品の破天荒な作品構造をさほど奇異には感じない程度に慣れたせいであろう」と解説している。その通りであろう。それは私のことでもあるが。
 恥ずかしながら私も、退官を間近に控えた老哲学教授を主人公にした物語を、長く書きついでいる。もう五年以上になるだろうか。第一稿が出来た時、あまりに「野いちご」に似ていたので、自分で読んでいて汗顔の至りであった。完成の見込みは――ない。「私にとっての『野いちご』」を作りたいと考えているのは、何もウッディ・アレンやアルノー・デプレシャンばかりではないのである。「野いちご」とはそういう作品なのであろう。
 ヴィクトル・シェストレムのように、ただにっこりするだけ、そのさらりとした笑みの中に、その人の内面や人生のすべてを表現出来たら――そんな夢想もしてしまうのである。