久しぶりの札幌行きである。急な旅の準備で、夏に使ったバックパックの中身をあけていると、一冊の本が出て来た。レオニード・ツィプキンの「バーデン・バーデンの夏」。ちょうど話題になっていたので、昨夏札幌で買い求めた。半分くらい読み進めたが、あんまり面白くてもったいないからと、続きは東京に帰ってからのお楽しみにとっておいた。貧乏性である。で、そのまますっかり忘れていた。健忘症である。
ドストエフスキーをめぐる小説である。二つの時、二つの旅が絡み合う。一つは現代の冬の旅――1960~70年代と思しき冬、12月のある日、モスクワからレニングラードへ列車で向かう「私」の物語。移り行く景色を眺めている語り手、漂流する意識の合間から、ほぼ100年前、1867年の夏の旅――ドストエフスキーと妻アンナのヨーロッパ旅行が浮かび上がって来る*1。
ドレスデンからバーデン・バーデンへ向かう夫妻。南ドイツの名高い保養地(日本人にとっては昭和陸軍暴走の原点の地として記憶されているが)での、小説を地で行くギャンブル狂いの日々、矛盾と謎に満ちた夫の姿が、妻アンナを視点人物に克明に描かれている一方で、語り手は自由に視点を変え――ドストエフスキー作品の登場人物についての考察、プーシキンなどロシア作家論、ソルジェニーツィンやサハロフのゴシップ的エピソード、 語り手の人生の自伝的回想等々――句点が極端に少なく、ダッシュ(――)で結ばれた息の長い文を延々と連ねた、破天荒といっていい文体によって「私」の意識の奔流が綴られていく(フラッシュバックの多用、映画的な時間処理*2)。
せっかく見つけた本なので、とっとと続きを読めばいいものを、この小説にふさわしいシチュエーションを――というわけで、札幌行きの飛行機の中で読むことにした。窓から機外を眺めても、夜汽車の車窓の風景ほど思考を刺激することはない。ただなんとなく、ドストエフスキーやツィプキンに倣い、冬空の下、夏の日の印象を呼び覚ましたくなる。
私たちが夏に撮った短編映画も紆余曲折の末、英語版も含めほぼ完成したようだ。照明と熱気で異常に暑い室内、ほぼ24時間ぶっ続けの撮影でもうろうとする意識、夜明けに鳴り響くエレキの爆音、異様に高ぶる神経、奇妙な高揚感に包まれる一同――その夜、疲れ切った体を露天風呂に浸し、のぼせ切った頭でぼんやり見つめ続けた夜空、そのまま満月に吸い込まれそうだった感覚を思い出す。
バーデン・バーデンを出発する夫妻。一幕のファルスのような慌しさ。やがて夫妻はスイスのバーゼルへ。ドストエフスキーの脳裏には、「白痴」のモチーフ群がぼんやりと浮かび上がって来る。一方、レニングラードに着いた語り手、ここから作品の佳境のドストエフスキー巡礼である――私も昔、一人旅でこの辺りは歩いているので土地勘はあるぞ、さあ――と、ここで小説を読む手を止めた。続きは札幌に着いてからのお楽しみにとっておこう。つくづく貧乏性である。
*1:前年完成した「賭博者」の口述筆記者であるアンナ・グリゴーリエヴナ、彼女と再婚したドストエフスキーがヨーロッパに旅立ったのは、頻発する癲癇の発作に苦しみ、転地によって少しでも発作を抑えることが大きな目的であったと言われている。
*2:スーザン・ソンタグによる感動的な序文によると、ツィプキンは優秀な病理学者であったが、映画監督を夢見て、映画大学の夜間学部に入学することを真剣に考えていた。家族を養うためにあきらめたという。