2009/04/24 星と奇跡

 それから一体どうなったんだろう、あの主人公や登場人物たちは?――と、映画を観終わった後、あれやこれや空想に耽りたくなることがあるが、ビクトル・エリセの「エル・スール」(El sur,1983年)はそんな作品の筆頭だ。書店でふと目に留まったアデライダ・ガルシア=モラレス(映画製作当時のエリセ夫人)による原作小説「エル・スール」の翻訳本、その表紙をぼんやり眺めていると、まだ見ぬ映画の<結末>の世界へと誘われるような気分になった。<南>へ旅立ったエストレリャは何を見たのだろうかと。

 映画は父親・アグスティンの自殺を機に、娘・エストレリャがその秘められた謎を解き明かすため父の故郷・セビリャへ旅立つところで終わっている。よく知られているように、脚本ではエストレリャのアンダルシアでのエピソードが用意されていたが、経済的理由など製作側の判断で撮影は中止された。完成した映画の結末は絶妙なオープンエンディングになっており、なんとも深い余韻を残すが、エリセ自身は作品は未完であると公言している。
 父は死の前夜、娘の枕の下に二人の絆の象徴である振り子を置く、それは南へ行き、自分が果たせなかった願いを遂げてほしいという父から娘への密かな命令であり、旅に出た娘は、北と南に引き裂かれた父の自我を統合し、そのことによって自らも成長する――つまり、南への旅が欠落したことにより、作品のテーマそのものが宙吊りにされてしまったのだと。

 映画の謎解きのように読み始めた原作であるが、アデライダによる自伝的な中編小説が、映画とは全く異質の魅力をたたえていることに大きな驚きを覚えた。南から逃げるように移って来た家族、マジカルな力を持つ父、影の薄い母、振り子を通して父から娘へ伝えられる霊力、初聖体拝受、父の愛人の影、苦悩と自殺――プロットの大筋こそ映画に生かされているが、登場人物や設定などは大きく変えられている。
 というより、作品そのものの味わい、質感が全く異なる。繊細な光に照らされ、淡く浮かび上がる人影を主調としている映画に対し、原作の世界は深い闇に覆われた、人間心理の影絵のようである――うまく言えないが、そんなように感じる。  
 例えば教会への背反について。映画においては、父の教会への反発を通して、スペイン内戦の影、共和派=敗北者としての疎外、鬱屈、痛みなどが暗示的に照射されるが、原作においては、そうした政治的・社会的なコンテクストは後景に退き、前景で強調されているのは精神的双生児のような父娘の暗く妖しい資質、そのデモーニッシュで反カトリック的な性格である。
                                                  
 「残念ながら」ではなく「幸いなことに」、原作を読んでも映画の謎がすっかり解けることはなかったように思える。主な挿話(異母弟との出会い、インセスト的な交感等)は生かしつつ、映画の結末はやはり原作とは大きく異なるものになっていただろう。というのは、原作の結末において、エリセの示唆しているような和解―成長といった主題は希薄で、むしろ、主人公のアウトサイダーとしての運命の受容の物語のように私には読めたからだ。
 アデライダの原作に触発されつつ、背日性から向日性に、エリセの胸中で主題が変質した――いつまでも<存在しない結末>に拘泥していてもしかたがないので、映画の冒頭、無比のファースト・シーンに戻ってみると――。
 暗闇の中の寝室、窓から差し込むほのかな曙光、ベッドの中のエストレリャ、父の失踪を知り大騒ぎする母の声、明るさを増す室内、枕の下に置かれた振り子、永遠の別れの確信、強烈な朝の光、フェードアウト・イン――淡く優しい光に包まれた同じ寝室、ベッドには身重の母、母のお腹の上に振り子をかざす父、産まれて来る子供を女の子と予言し、未来の娘をエストレリャEstrella=<星>と名付ける――物語の導入、主人公による長い回想の冒頭であり、父についての原初の記憶とされながら、事実の伝聞に基づくのか、主人公の全くの想像なのか判然としない、模糊としてどこか神話的な表象。主人公の名前(原作ではアドリアナ)をエストレリャに変えたことこそ、原作に対する原初の、決定的な改変ではなかったのか――繰り返し登場する<星>の形象群(エストレリャの指輪、カリオコの落書き等)――父が娘を<星>と命名することに託された、希望、和解、救済といった<未完のモチーフ>の胚胎*1――そんな空想に耽りつつ、本を閉じた。

*1:そうしたモチーフの成就にはミラグロスMilagros=<奇跡>が大きく与るのだろう。